流脈線と異形頭

この記事について

この記事は異形頭オンリーAdventCallendar 2023 16日目の記事です。

※おことわり

こちらの記事は、異形頭に対してかなり個人的な偏見と理想と浪漫が凝縮されています。また、言葉や文も拙いところが多く有ると思います。合わないと思った方は静かにブラウザバックされるなど自衛対応をお願いします。

以下より本編。

はじめに

今回は流脈線と異形頭について書き連ねていく。流脈線、文字通り流れを表す線。流脈線という本来の細かい定義について辿ってしまうと本来話したいことから離れてしまうため、ここに類似・派生するものはこの記事では流脈線として話そう。筆者である白い人が絵の表現としてについても話をしたいため、今回は「流脈線」という単語も借りつつ話をしたい。 異形頭には流脈線が似合うと思っている。そんな話だ。

不定

その理由についてだが、まず彼らは「不定形」だからだろうと考えた。これは身体の物理的な在り方だけを言っているのではない。その、人間からはあると思われている異形頭の「こころ」の在り方も指している。あくまでも、不定形であるからというのは筆者白い人個人の推測・想像と考察であることには留意してほしい。

心の在り方

彼らの精神はどこにあるのか。人間ならば一般的にはあると考えられている「こころ」であるが、彼ら「生物と物の境界」は同様に有しているのかどうかというところだ。あるところではそれらの行動は機械的で、「こころ」というものは無いとも言われたりする。そう主張する者たちが言うに、彼らを動かすのは恐らくどこか違う、ハートでもない何かだと。人間は大抵何か信念を持って動く、動かされる。だが、彼らは何かの意識の集合体か、それとも法則をただ形で表現したものか…自律性はあるが生物的な感情だとかを感じさせず、そういう冷たさ・不気味さを感じさせるという。彼ら個々そのものに意思はなく、「法則」の奔流の中に流れているだけの傀儡のように映ることがある。そういう流れに身を任せているような様が、流脈線を想起させているのかもしれない。

ある人は言った。確かに再現を使命とした彼らは人間の暖かさを模倣しただろう。だが、どうしてもその裏側にある無機的なものがあった、と。生物とは本質的に異なる無機質さは、どう精巧に模倣できたとしてもどこか行動の節々にどうしても残ってしまうのだろうか。

しかし当然それは見る人によって感じ方は様々。前述の主張と打って変わって、同じ様に「こころ」があると語る人も当然の如く存在する。元が人間であったもの、人間の思念から生まれたものなど、そういった素質をもっている異形頭がいる点で、そういう動きを取っても何もおかしい事はないだろう。そもそもの議論の中心にいる異形頭そのものが、それぞれ有る様に無いように振る舞うものだからより混乱が広まるのも無理はないのである。

まず、この点で「不定形」だと感じた。彼らの在り方に「定形」なんて存在しない。

身体の在り方

生物という「定形」からも外れているというところが、次に挙げる「不定形」の要素。人間の身体の形容を取りながら、無機的なカタチを頭(中心)に据える。人間のなりそこないの様な、人間を模倣している様な、そんな様。彼らは我々が今まで定義してきた「生物」という「定形」ではない。

そして、異形頭でよく個人差がでるところが人間的な身体を持ち合わせているかいないかという差異。無機物と有機物を接合した様の異形頭がよくみられるが、それと同時に首から下も無機物で構成されていたり、もっといえば「なにもない」ものもいる。もはや形のみであり、生物とはかけ離れているものまで。人によって捉え方が様々である点から「不定形」と考えられる。

そもそも論になってしまうのだが、異形頭というのはヒューマノイド(我々)にとって都合のいい形なだけなのかもしれない。観測する側の「常識」がヒューマノイドであるが故に、その中途半端な歪としか認識できないという考え方である。神々という存在をを自分らと同じヒューマノイドで描く様にしか認識できない、といったように。極論、真の彼らはヒューマノイドではない可能性もあるわけだ。

これも異形頭が身体の在り方としても「不定形」と感じるところ。

流れの中に身を任せ、流されるまま動かされ、働き、佇み、壊れ、還って行く。そこに心はあるのか? 人々の中に流れる様々な感じ方の流れが、様々な彼らを形作り、溶け合い、また新しい彼らを形作っているようにも感じた。

個人理想論

上記の2つの在り方から、白い人の描きたい異形頭について少し。

白い人は度々この「流脈線」と異形頭を描きたくなる。 なされるがままに、事に、時に流される、意思のないヒューマノイドとして描くために流脈線と共に描きたいというのが存在している。異形頭の心の無機性からくる自己決定意思の無さを、「流される」というところで表現したいといったところか。異形頭が抵抗することもなく翻弄されるという姿が良い。

また、流されるだけでなく、彼らの身体もその中に溶け出すように描きたいというものもある。流れとは岩も削る力があるわけで、彼らの姿を削るのも造作もないだろう。そして彼らも自分のカタチが変わる・なくなることに抵抗がないという様が、非生物感を漂わせると個人的に感じておりそういう姿を描きたい、というのがある。

自分が思い描く異形頭の身体を這う流脈線は、彼らのその不定形で不安定である存在を端的に表しているのかもしれない。 だから、私は流脈線と異形頭を同じ画の中に添えたい。

彼らは不定形で、様々な流れの中に立っていて、姿も形も在り方も「その限りではない」 そんな可能性の話である。