異形頭は「理解」してはいけない

はじめに

この記事は異形頭オンリーAdventCallendar 2023 25日目の記事です。

挨拶・おことわり

こちらの記事は、異形頭に対してかなり個人的な偏見と理想と浪漫が凝縮されています。また、言葉や文も拙いところが多く有ると思います。合わないと思った方は静かにブラウザバックされるなど自衛対応をお願いします。

異形頭と不確実性

タイトルでかなり大々的な仰々しい文字列を並べてしまったが、あくまで個人の理想の話である事は念頭に置いておいて欲しい。

大抵の新しい未知のものが発見された場合、ある程度の動作や現象には法則などが決まっていたりしている。予測に基づいて分析・理解され正体と対処方法が判明していくと人間の注意・興味というものは失われていく。最終的には、その常識によってそれまで「異常」だったものは法則に基づく「正常」であると認識されてその感覚が忘れられていく。

私個人としては、異形頭にはそのような「いずれ理解できるもの」としては存在してほしく無いのだ。彼等には「理解できないもの」として、「未知のもの」として人々の中に存在し続けて欲しいと考えている。

亡霊辺りがよく「科学的(論理的)には理解できないもの」としてよく連想できると思うが、異形頭はまた別の不安定性によるある種の恐怖を抱かせる「何か」を持っていて欲しいのだ。これもまた分かる人にしかわからない表現になってしまうが、オカルト板の怪談、都市伝説の様な感じの絶妙なリアリティと空想の境界線から来る不気味さを持っていて欲しい。

極論、「異形頭を知るという事がタブーである」という所か。

極端に表現すれば、知るという「罪」を知った上でも愚かに抑えられない探究心によって彼等を追いかけようとする。この構図含めても面白いだろう。そう、未知というものはそういう誘惑を与えてくる。

「理解」をしたがる存在達

そんな人間にとって常時「未知」であり「異常」である不確実な何かが常に身近に存在し得るというのは中々脅威だろう。人間にとって…というより生存する事が優先事項である生物にとっては 未知 ≒脅威 なのだ。故に当然「知ろうとする者」が現れるだろう。特に思考能力に長けている存在ほど余計な探りをいれがちなものである。こうして何度も異形頭を観察し続けたり解釈を深めていこうとする動きは繰り返され、その後を追おうという人も多く存在している。となると、かなり彼等の解釈は進んでいるのではないか、と思われる人もいるかもしれない。

だがしかし、様々な知見や推測が積み重ねられたところで、それでも異形頭にはそういう「常識」の中に囚われてしまうことはなかった。人によって、捉えられ方が180度も変わったりする程に彼等は不確実なのである。当然議論は常に交わされ、その都度知見は蓄積されるものの集まれば集まるほど情報量が増えるだけ。傾向こそ出そうと思えば出せなくもないが、真反対の話がある時点でこの話は収束することはない。他人には他人の見る異形頭と言うが、誰もが「自分の見たものが真実」と思っているのだ。(これはこれで大切なのだが)

何故異形頭に精通した者がいないのか。恐らく彼等を深く理解しようとした存在はどれもこっぴどい返り討ちのような現象に遭遇しているのだろう……とかだと面白いとも思ったりしている。この辺り、何も残らない故に検証しようがない為真偽は不明……だと更に良いかもしれない。まあ本当にそうだとしたら恐ろしいものである。殆ど形跡が残らないせいで報告数も少ないのかもしれない。

人間が真に理解できない理由

しかしなぜここまで異形頭が「理解」ができないのか。人間が異形頭を理解できないのは何故かについて少し考えてみた。

言語

人間というのは大抵が「言語」から文化を理解をしようとする。人間の異文化交流はまず言語とその特性からだ。その文化圏が何を重要視するかだとかも、言語の癖からも分かったりするあたりが顕著な例だろうか。それに対して、異形頭は「非言語的」だったりする例が多く見られる。この場合の異形頭というのは人間が思う「言語」というものを使わない。つまり、文化を知る糸口を一つ絶たれているということになるわけだ。これが理解できない要因として上げた一つ目。

常識

異形頭というものは一般的な生物からは逸脱していたり、そもそも物理法則に反する存在も居たりする。このように、存在そのものから人間の基調空間の常識が通用しないというところが、人間を「理解」から遠ざけているという可能性も考えられる。更に、「別の空間」から来たとしたら彼らの存在している空間の常識はより未知となるだろう。

感覚

上記に近い内容かもしれないが、異形頭が持っている感覚というのは常識同様に予測不能である。一見同じ感覚を抱えている様に見えたとしても、「彼らが模倣していた」という話も複数上がっていたりもする。故に、彼らがある現象に対してどの様に感じ・考えているのかは真に理解できていないのだろう。

不明性のベースを確立し、まず「知らない」を「知る」という試みの紹介だ。

※これらを更に追求し解ろうとする場合、こちらの責任は取りかねます

さいごに

異形頭は「理解」できない存在。或いは、「してはいけない」存在なのかもしれない。異形頭以外が分かることができないことを「理解した」ということになったならば、恐らくその時はすでに貴方は「あちら側」となっているということは、覚えておいてほしい。

スペシャルサンクス

年末のお忙しい中、今回のアドカレに参加してくださった方本当にありがとうございました。複数日担当などしてくださる方などのご協力もあり、なんとか今年もアドカレ最終日まで無事に完走することができました。再三になりますが本当にありがとうございました。

また機会があればよろしくお願いいたします。よい年末を!

流脈線と異形頭

この記事について

この記事は異形頭オンリーAdventCallendar 2023 16日目の記事です。

※おことわり

こちらの記事は、異形頭に対してかなり個人的な偏見と理想と浪漫が凝縮されています。また、言葉や文も拙いところが多く有ると思います。合わないと思った方は静かにブラウザバックされるなど自衛対応をお願いします。

以下より本編。

はじめに

今回は流脈線と異形頭について書き連ねていく。流脈線、文字通り流れを表す線。流脈線という本来の細かい定義について辿ってしまうと本来話したいことから離れてしまうため、ここに類似・派生するものはこの記事では流脈線として話そう。筆者である白い人が絵の表現としてについても話をしたいため、今回は「流脈線」という単語も借りつつ話をしたい。 異形頭には流脈線が似合うと思っている。そんな話だ。

不定

その理由についてだが、まず彼らは「不定形」だからだろうと考えた。これは身体の物理的な在り方だけを言っているのではない。その、人間からはあると思われている異形頭の「こころ」の在り方も指している。あくまでも、不定形であるからというのは筆者白い人個人の推測・想像と考察であることには留意してほしい。

心の在り方

彼らの精神はどこにあるのか。人間ならば一般的にはあると考えられている「こころ」であるが、彼ら「生物と物の境界」は同様に有しているのかどうかというところだ。あるところではそれらの行動は機械的で、「こころ」というものは無いとも言われたりする。そう主張する者たちが言うに、彼らを動かすのは恐らくどこか違う、ハートでもない何かだと。人間は大抵何か信念を持って動く、動かされる。だが、彼らは何かの意識の集合体か、それとも法則をただ形で表現したものか…自律性はあるが生物的な感情だとかを感じさせず、そういう冷たさ・不気味さを感じさせるという。彼ら個々そのものに意思はなく、「法則」の奔流の中に流れているだけの傀儡のように映ることがある。そういう流れに身を任せているような様が、流脈線を想起させているのかもしれない。

ある人は言った。確かに再現を使命とした彼らは人間の暖かさを模倣しただろう。だが、どうしてもその裏側にある無機的なものがあった、と。生物とは本質的に異なる無機質さは、どう精巧に模倣できたとしてもどこか行動の節々にどうしても残ってしまうのだろうか。

しかし当然それは見る人によって感じ方は様々。前述の主張と打って変わって、同じ様に「こころ」があると語る人も当然の如く存在する。元が人間であったもの、人間の思念から生まれたものなど、そういった素質をもっている異形頭がいる点で、そういう動きを取っても何もおかしい事はないだろう。そもそもの議論の中心にいる異形頭そのものが、それぞれ有る様に無いように振る舞うものだからより混乱が広まるのも無理はないのである。

まず、この点で「不定形」だと感じた。彼らの在り方に「定形」なんて存在しない。

身体の在り方

生物という「定形」からも外れているというところが、次に挙げる「不定形」の要素。人間の身体の形容を取りながら、無機的なカタチを頭(中心)に据える。人間のなりそこないの様な、人間を模倣している様な、そんな様。彼らは我々が今まで定義してきた「生物」という「定形」ではない。

そして、異形頭でよく個人差がでるところが人間的な身体を持ち合わせているかいないかという差異。無機物と有機物を接合した様の異形頭がよくみられるが、それと同時に首から下も無機物で構成されていたり、もっといえば「なにもない」ものもいる。もはや形のみであり、生物とはかけ離れているものまで。人によって捉え方が様々である点から「不定形」と考えられる。

そもそも論になってしまうのだが、異形頭というのはヒューマノイド(我々)にとって都合のいい形なだけなのかもしれない。観測する側の「常識」がヒューマノイドであるが故に、その中途半端な歪としか認識できないという考え方である。神々という存在をを自分らと同じヒューマノイドで描く様にしか認識できない、といったように。極論、真の彼らはヒューマノイドではない可能性もあるわけだ。

これも異形頭が身体の在り方としても「不定形」と感じるところ。

流れの中に身を任せ、流されるまま動かされ、働き、佇み、壊れ、還って行く。そこに心はあるのか? 人々の中に流れる様々な感じ方の流れが、様々な彼らを形作り、溶け合い、また新しい彼らを形作っているようにも感じた。

個人理想論

上記の2つの在り方から、白い人の描きたい異形頭について少し。

白い人は度々この「流脈線」と異形頭を描きたくなる。 なされるがままに、事に、時に流される、意思のないヒューマノイドとして描くために流脈線と共に描きたいというのが存在している。異形頭の心の無機性からくる自己決定意思の無さを、「流される」というところで表現したいといったところか。異形頭が抵抗することもなく翻弄されるという姿が良い。

また、流されるだけでなく、彼らの身体もその中に溶け出すように描きたいというものもある。流れとは岩も削る力があるわけで、彼らの姿を削るのも造作もないだろう。そして彼らも自分のカタチが変わる・なくなることに抵抗がないという様が、非生物感を漂わせると個人的に感じておりそういう姿を描きたい、というのがある。

自分が思い描く異形頭の身体を這う流脈線は、彼らのその不定形で不安定である存在を端的に表しているのかもしれない。 だから、私は流脈線と異形頭を同じ画の中に添えたい。

彼らは不定形で、様々な流れの中に立っていて、姿も形も在り方も「その限りではない」 そんな可能性の話である。

割れ物の異形頭と破壊現象について

この記事について

この記事は 異形頭オンリー Advent Calendar 2023 14日目の記事です

こちらの記事は、異形頭に対してかなり個人的な偏見と理想と浪漫が凝縮されています。また、言葉や文も拙いところが多く有ると思いますので、合わないと思った方は静かにブラウザバックされるなど自衛対応をお願いします。

前書き

割れゆく異形頭について、今回はお話しようと思う。 割れ物の異形頭はその性質上非常に儚い存在だ。異形頭というのは、大抵その価値は「頭部」にある。その非常に重要な部分でも有る頭部が一番脆く壊れやすいというその様は刹那的でそれならではの良さを感じられるだろう。

この異形頭の頭部の破壊については美しさ等の浪漫以外でも、異形頭そのものの現象についても確定性が低いため以前より研究・観測が行われている。何がそこまで「異形頭の破壊」が研究考察が活発にさせているのか。様々な視点から考察を行っていく。

破壊、その良さ

まず、割れる異形頭は何が要因で「良い」と感じさせられるのかについて、物理と内部の二点より整理してみる。

物理的な破壊

まず、そもそもの物理的な破壊の際の良さについて話を軽くしよう。スローモーションで破壊される硝子だったり容器だったりの映像や、その割れはじめの止め画にはある種の趣があり、好きな人も少なくはない。

その中で個人的に破壊に於いて重要なポイントの一つとして考えているのは、壊れ始めの破片が散り始めるその瞬間だ。往来のもののカタチを僅かに残しつつ、もう二度とその状態に戻ることはできないという瞬間であるが、その際に宙を舞っている細かい粉のきらめきや、断片の輝きが良いと考えている。

また、割れる要因も様々で、落下や圧迫、衝撃や熱・音波などの現象まで様々な要因によって割れることができる。外部衝撃の一種である弾丸が当たった際の硝子の散る様も見甲斐がある。このように割れ物の破壊の良さについて探していけば良いところはキリがない。割れ物が物理的に破壊されるというその図そのものが、そもそも非常に魅力的なのである。

内部的な破壊

上記では物理的な面での破壊・破片について言及したが、思考的な面についての破壊にも触れたい。これは物ではなく「異形頭」を対象にしているからこそ上げられる論点である。

ヒューマノイドに於いては、頭部というものはかなり個を表現・認識するためのパーツとして重要度が高いと捉えられやすい。その個の象徴である頭部が壊れる瞬間、というのは「個性・人格」の物理的な破壊と見ても違和感が無いように感じる。精神破壊というところを頭部の物理的破壊で表すというところだ。

この精神と物理の「二重破壊」は一見して過激に映るかもしれないが、その破片が散る美しさと実際に起きている事のギャップなどから、その現象が美しいと錯覚してしまう、魅力に取り憑かれてしまうという人も珍しくはない。この精神の破壊については下でもう少し詳しく検討してみる。

頭部破壊という現象が表すもの

先述した頭部破壊についてだが、一体どのような影響があるのか、その「意味」について、もう少し考察を行ってみる。実際にはただの物理的に壊れてしまっただけであり特に脳みそなどがあるわけでもないので活動に問題ない、といったようなものも多くあり、異形頭は人間とはかなり構造が異なるために様々な相違点が考えられうるためだ。

精神の破壊

心、というと大抵は心臓あたりを指したりもするが、結局のところは頭での処理結果が精神であったりする。また、上記項目で触れたように頭部というものはアイデンティティとして中心によく添えられるている。その自我の象徴でもある頭部の破壊というのは、非常に内部にはクリティカルなダメージとなる象徴として捉えることが可能だと考えている。

アイデンティティの崩壊というものは、事故の如く意図しないタイミングで突然やってくるもの。精神は常にその危険性にさらされているというところでは、人間も異形頭に近いような生態をしているのかもしれない。最近ではそれに関する考察や、更にはそれを裏付けるような調査報告が増えて来てもいるが、この点についてはまだまだ新しい報告は増え続けているため注意を向けておく必要がある。

記憶の崩壊

頭部というと人間で言えば脳という中枢であるが、思考の中枢とはまた別で「記憶媒体」でもある。物理的に例えれば、文字ベースならノート、機械的に言えばHDD等のストレージだったりする。そういったところが異形頭にも適用されていたとしたらの場合についても考えられやすい。

ノートで言えばぎっしりと文字が書かれたページの一部が破られ、にじみ、焼けて抜け落ちて読めなくなるように情報が欠損し読めなくなってしまった場合、その情報は抜け落ちる。脳みそに状況を置き換えて考えてみれば「記憶喪失」である。滲んだような情報の欠損はどうあがいても修復は難しいだろうが、破られて抜け落ちたところの文字は読めるようなパターンも考えられる。

もし、ノートの破られた部分のように割れた頭部の破片の一つ一つに部分的な記憶が記録されていたとすれば、つなぎ合わせる・その素材で作り直せる場合にその記憶を有するのかなどまだ研究は進んでいない。特に修復の手法についてと合わせて更に今後研究が進められるだろう。

ただの物理現象

もう一つ異形頭特有のものとして、ただの物理現象で「ものがこわれてしまっただけ」であり何も殆ど問題がないというところである。人間で言えば、「ちょっと髪の毛が焼けてしまった」「爪が割れてしまった」というようなカタチで、多少問題が発生したとしても特に問題がないというところである。

その存在にとって大切な箇所や中枢というものが別であるのか、それとも元々何も崩壊・破壊するようなものがなくて通常通りに活動ができるのかというところで、このタイプの異形頭についてはなかなか発見報告・観測報告も少なく確認が進んでいないようである。報告確認・観測はここでも引き続き進めていきたい。

異形頭の態度について

また、異形頭の破壊に対する態度についても触れておきたい。生物であれば「生存本能」というところから自分が破壊される(外傷を負わされる)ことに対して抵抗・回避するだろう。だが、物というものは基本的に破壊という外力に対して抵抗するという事はない。

一部ではその性質を「物」である異形頭がただの「物」として持っているのではないかと考えられている。その破壊に対して「抵抗感」があまりない姿に、生物のカタチを取りながら生物ではないような歪さを表現しているのではないかという考察も出てきている様だ。

無抵抗さというところでの「歪さ」について、私個人としても非常に浪漫を感じている。勿論自分の風貌に自信を持っているような、物らしからぬ自我がある異形頭であれば抵抗もするであろう。それもそれで味があるだろう。

あとがき

今回は「割れ物」というところから「破壊」までの意味まで考察を行った。「破壊」というのは「割れ物」以外でも、物理的に触れることができ存在するものであれば何にでも当てはめる事ができる。是非この「割れ物」の良さや「破壊」の良さについて共感した方は、さらなる考察・観測・報告を検討してみてほしい。

異形頭に求める幻想

はじめに

メリークリスマス!異形頭アドカレ2022 25日目担当 白い人です。
※ご注意※ ただのオタクの早口なので、適当に流していただけると嬉しいです。話したいだけなんです…今日だけは(?)勘弁してください。 かなり個人的な「可能性」と「浪漫」の話に寄っている上、今後白い人の持論も変わる可能性もあるので本当に軽く…

異形頭はいいぞ

それでは本題

ここまで異形頭異形頭して、何を今更というところはあるとも思いますが やっぱり
「異形頭はいいぞ!!!」
…となりますね。異形頭が「良い」っていうのは真理なので仕方ないのですが。白い人的に異形頭の一体何が良いのかというところを深掘りしていきます。…つまり今回は白い人の異形頭に対する個人的な癖とこだわりについて書き連ねて行こうと思います。

個人的に考えている異形頭の「良さ」

まず異形頭の何が良いというと、彼らが「物であり、ヒトである」ということ。見た目からハイブリッドだったりする彼らは、生物とただの物の境界線の真ん中に彼らは立っていて、この時点で思考の幅が生まれていきます。各々の解釈によってどちらかに寄ってみたり、結局どちらでもないなにかになったり、いくらでも考えることができて可能性が広いなあと感じているのです。

ここでまず白い人が良さと称して提示したい可能性の一つが、生物の常識からの開放としての異形頭。彼らは生物と非生物の狭間にいるわけで、どちらの性質も持っていても良いのでは?と白い人は考えているのですが、だったら生物の見た目をしていながら生物の性質が殆ど無であってもいいのではないかとも思っています。…少し白い人がそもそも「生物」そのものに妙な嫌悪感がありまして、生物という枠から開放されたいという変な願望があるのです。それ故に…どうしても異形頭に「非生物性」を求めてしまうのだと思います。…個人的な浪漫なので勘弁してください(?)

次に白い人が好きなタイプが人間のなり損ないとしての異形頭。これは生物になろうとしてなりきれなかったタイプかなと考えています。中途半端でどこにも属すことができないという感じの、複雑な境遇を抱えていそうなタイプだなと考えています。どうあがいても人間にはなることはできない彼等。その頭の存在が、その異形頭という歪みそのものが、その歪な存在に刻みつけられて消えることのない傷が本人を苦しませ続けるのでしょう。人間から度々「なりそこないが何しても我々にはなれない、諦めたら良い」と心ない言葉を打ち付けられ、でもそんなことは本人が一番わかっているという構図がよく見られそうです。彼等は深い諦念のうちに、道端に横たわっている可能性もありそうだなと考えています。

あとは、人間の根底意識からやってきた異形頭というのも大好きです。人間の醜態部分をそのまんま写したものでもいいし、集合的無意識から形作られた社会の闇の権化みたいな異形頭とかでもいいですね。またマンデラ効果に基づいたような異形頭もいてもいいでしょう。兎に角、存在そのものが風刺といった感じの異形頭を描いたり考えたりするのが好きです。これ、欠点として考えていると自分も精神的に負傷することがあるのですが、そういった後ろ向きの攻撃性でしか得られないプラス養分は確実にあると思います。

こうだったら嬉しい「異形頭」

これは完全に白い人が一人で抱えてる浪漫なんですが…いや先述のセクションも同じようなものなんですけどももう少し踏み込んで話させてください。先程も申し上げたように、生物の形していながら生物の性質がないというのがとても大好きです。ここを主軸にもう少し話を展開します。

で、まず生物といえば三大欲求ですが、まずこれがないと良いなあと思うのです。つまり「寝ない」し「食べない」し「性欲もない」というところですね。完全に白い人の願望の反映ではあるのですが…非常に個人的で情けない話、これらの三大欲を常日頃から非常に邪魔に感じており…生きるための行動というのが面倒くさいなあと感じてしまう今日この頃でして。それを異形頭に求める傾向があるというかそのような感じです。生物の道から外れた彼等ならその可能性があるのではないか?と思うのです。となるとどこから動的エネルギーを得ているのでしょうか…。

次にこうだったらいいな、というのが「痛覚がない」というところ。物って神経が通ってるわけも無いので痛覚も感じない。痛覚とはそもそも、生物が生命の危機を感じるための危険信号であり、「生きる」という必要性がない物の場合は痛覚は無くて当然。異形頭で物の性質が強い場合は生きるというところに執着がなさそうであるというところからの推察と願望です。痛覚がないのである日突然ぷっつり事切れる(?)可能性があるのですが、いかにも非生物らしい挙動でいいですよね。

「脳も神経もないから異形頭は痛覚を感じないのさ」
「じゃあ彼らの『意識』ってどこからきているんだい」
「我々の集合意識かな?」
「だったら痛がるっていう概念もありそうなものだけどなあ」
「たしかになあ」

また、感情がないとより不気味さが増して、異形頭の浪漫だなと個人的に感じています。大抵の生物(動物)は感情という衝動の基に生きています。感情は本能であり生きて行く為に重要な機構でも在ると言われていますが、そんな本能は非生物には必要ありませんよね?なんて白い人は思っているのです。結局彼等有機物の人型をとっているだけで根本は非生物、非生物は「生きる」必要はないので感情が発生しうる何某もないのでは?と考えたりしています。白い人的に感情というのは大抵邪魔にしかなりません。感情に振り回されることのない異形頭らが羨ましいな…と白い人は常々思っています。

抵抗意識がないというのも異形頭っぽいなと個人的に考えています。といいますのも、そもそも物は押されようが引かれようが壊されようが、抵抗することがないからです。つまり人形のような感じでしょうかね。人間のように生きているようで、生を阻害するものに対して抵抗しなければならないという認識がない(必要性を感じない)という様であるのが非常に好みに合致しますね。結局のところ身体の形だけが人間なのであって本質は物なのだから、物は物らしくやられるようにやられていればよい、というところなんですかね。

上記に付随して、そもそも自我が無いという異形頭も好きです。一般的に考えて物に自我があったら怖いじゃないですか…とか思うんですけどね。人の形をとって生物たらしく動くというだけで、勝手に自我があると認識する人間が悪い(主語がでかすぎる)。

おまけ:白い人の自創作と葛藤

前セクションで申し上げました「異形頭は自我を持つべきでない」「異形頭は『生きていない』のが理想」という超個人的な幻想と、自創作が相反するもので自分の中の矛盾で苦しいという話です。

そもそも「キャラクター」というのは"それぞれ自我と意識があり、目的をもって生きる"という存在だと思うんです。そう、自分が掲げる理想論と真反対を行くんです。キャラクターに性格をつけて、名前をつけて…とやっていると確実に先述した「白い人が理想とする異形頭像」から離れていく様に感じてしまいます。その点では創作と称して名前をつけたりした彼等は白い人のなかでは「失敗作」にあたるんですよね。

でもいまのところ、愛着が湧いた異形頭には"生きている姿"を思い描いてしまうのです。こういうところから中々、私そのものにも中々の不完全さと矛盾性を感じたりして苦しいところがあります。物であるはずの異形頭への愛着が湧くというのは、もしかしたら異形頭という概念に取り憑かれている可能性もありますね…。

おわりに

異形頭という存在が不確定で在る故に各々の思う様々な異形頭像が存在しているわけで、兎にも角にも「異形頭」というものは可能性が無限大です。本当に異形頭って、いいですよね!(n度目) ありがとうございました。

お礼

今回この企画にご参加ご協力してくださった方々、また企画コンテンツを見てくださった方々、本当にありがとうございました。人徳からなにから不足している白い人の企画で立案時はアドカレとして成立できるのか非常に不安だったのですが、皆様のご協力のお陰もありまして25日分の枠を無事に埋め切ることができました…!重ねてになりますが本当に感謝いたします!

また機会あって企画することがあれば、その際はまたよろしくお願いいたします。

それではまたどこかで。

白い人

異形頭の「不気味さ」はどこからくるのか

はじめに

これは異形頭アドベントカレンダー2022 9日目の記事です。
滑り込みでほぼ確認もなしに記事錬成したので、誤字脱字あったり変な文あったら教えてくださると嬉しいです。

本題

異形頭の「不気味さ」はどこからくるのか。異形頭を見たとき、よく「不気味だ」というイメージが良く出てくる様に感じる。最近はカジュアルフレンドリーなキャラクターをした異形頭もよく見かける様になっており、そういった「不気味」という第一印象が必ずしも共通しているとは限らなくなっているが、私が以前によく感じていたその「不気味」とはどこから来ていたのだろうかと気になった。ある種、この「不気味」に惹かれ続けて絵を描き続けているので、もう少し明確に把握しておきたいという気持ちもある。ということで、今回はこれについて私なりに色々と考えてみようと思う。

ヒューマノイドという形状」

意志のないように見える植物や無機物がヒューマノイドの形を取ると、大抵は人間の目には不気味なものとして映る。よくある例でいうと、大根の根の部分の形状が人のように手足が生えているように枝分かれしているものを見て不気味がる、という感じだろうか。人間は人間以外のヒューマノイドを見ると「不気味さ」を感じやすい。異形頭はいうなれば頭部以外を極限まで人間を模倣した何かだ。当然その類の「不気味」さの範囲に入ってくるのではないか…という推察。

形状の模倣といえば人間もよくやっている。但し、人間が動物を模倣して道具などを作成する理由といえば、ぱっと考えられるものは動物の進化によって得られた形状や性質のメリットを傍受するためだったり、その形状の意図を確認する為といった明確な理由がある。…まあ模倣の理由が明確というソレも人間視点での話ではあるが。虫や植物も、自分の身を守るため(生存競争に勝つため)というわかりやすい理由の元、有毒成分を持っている生物の模様・色を模倣するように進化していっている。形状が似ている理由が明確にわからなければ、確かに理由が不明という点からくる「不気味さ」はあるだろう。

そもそもの話、人間は人型というだけで、なにかしらの自分たちに近い意志や感覚があるのではないかと勘ぐる癖があるように感じる。そういう認識・感覚が「不気味」さを感させる主な要因なのかもしれない。

「読めない意識・感情」

生物は顔の各パーツを巧みに調整し、発声の調子も変えたり、場合によっては全身の体勢をもってして多彩な感情や意志を表現する。非常にわかりやすい全生物共通のコミュニケーションツールである。しかしまず、彼らにはコミュニケーションの一つである感情を伝えるための第一ツールである、動物や人間が普通もっているような「顔」が存在しないことが多い。動物たちは相手の顔を見て感情や伝えたい事を読み取るわけだが、それが異形頭相手ではできない。感情が視覚情報からでは読み取ることができないというのが、まず「不気味」さを出しているのだろうと考える。

そもそも、彼らが生き物でなくただの「物」として存在していたとしたらどうだろう。意識がそもそも存在しないことにより「不気味さ」が増して来ないだろうか。家具や道具が動物的な感情を持って行動したりしないのは当然のこと。基本的に彼らは人の身体をかたどったものに身体がついているだけなのだ。そもそも彼らは生き物なのか、生きていなければ何のためにそこに存在しているのだろうか。こういった不安を煽る要素が一つ二つと増えていく度に「不気味さ」は増してくるのかもしれない。

「同じではないなにか」

見た目が殆ど一致しているのにもかかわらず、行動・思考・感覚が一切違うものが現れたらどうだろう。怖いところがあるのかもしれない。形状は同じに近づいたとしても本質的なところは違うというところでの違和感から「不気味」性が来る。この違和感の一つに、頭部の無機物と身体の有機物の境界線というのがあるだろう。

人間の身体は基本的に有機的であり、怪我をすれば血が出たりする。だが、異形頭は頭部の見た目が無機物であったり異質なものにすげ変わっており、傷つけたときに何が起こるかわからない。見た目通りに金属は金属のように傷が付き、硝子なら割れてしまうかもしれない。もしかしたら見た目は無機的なのに怪我をしたら「ミ」が出てくるかもしれない。兎に角今までの常識や法則が覆すその姿そのものが「不気味」だ。

今までの人間としての一般常識を覆されたときの、常識が崩れていく感覚とそれを良しとせず排除・拒絶する感情。これもあるかもしれない。余談だが、先程も言ったいつも見かけているものに類似していると思ってよく観察をしたら、性質も法則も何もかもが異なった時の衝撃とオリジナルとの差異から来る「不気味」さ。今話題のゲームでも最終盤になってやっと出てくるキャラクター群がいるのだが、彼らの抱える不気味さにもこれに近いものを個人的に感じていたりする。

一見普通に見えても、しっかり観察をすると少しずつ違和感を感じるようになる、遅効性の「不気味」さもここの枠にはいるだろう。このタイプが好きな人も少なくはない筈だ。

不気味さと神秘性は紙一重。不気味な異形頭にはやはり浪漫がある。怪異系が好きな方は是非こういう異形頭も探してみてほしい。

異形頭は何故人型を取ることを選択したのか

はじめに

これは異形頭アドベントカレンダー2022 2日目の記事です。

前置き

まずここで話す異形頭とは、元人間といった異形頭は対象としていない事を明記しておく。 それを踏まえた上でこちらの記事を流してほしい。

本編

物体が自由に動くための体を得るため、モノを頭部として身体を作るとき人型を取る必要はない。もっと効率のいい形を取ることだってできるはずだ。 けれども彼らは人間の身体を模したり、それをベースに拡張することが多い。何故彼らはわざわざ人型をとるのか、様々な角度からアプローチをしてみる。

理由考察① 人間が近くにいるから

まず考えられる理由が人間が近くにいるため。異形頭としてまずよく描かれるのは、なんといってもハサミ・蝋燭といった道具や、電子レンジ・PC等の家電…所謂人間のツールである。彼らについてはそもそものベースの存在が、人間が何かをするために作り出され目的のために利用されるもの。人から人のために作り出されるなら、人間の形を取る様になるというのもまあ自然なことかもしれない。人が作り人が使うものなので、人の思念が刷り込まれているという考え方もできるだろう。所謂、付喪神のようななにかとして異形頭になるというもの。このルートで人型を取った異形頭は、人により能動的に尽くそうとするといったパターンがありそうだ。

一つ例を上げてみようか。ある作家が生涯に渡って大切に使っていた万年筆があったとしよう。その万年筆は作家が大切に使っているうちに意志を持つようになり、持ち主の手癖を覚えていった。当然であるがその作家は人間であるため、いずれ死んでしまう。だが物は、死というものがないので残り続ける。遺された万年筆は、いなくなってしまった持ち主の代わりに刷り込まれた記憶や知識・思念を基に、生前に作品にしきれなかったものを形にする為に、持ち主と同じ人の形を取りひたすらに紡ぎ続けるようになった…といったような感じだろうか。わざわざ人の形を取ってまで持ち主に従事しようとする道具たちという存在は、よく考えると中々律儀で、且つインパクトがあるようにも思う。

物本来の存在意義的に考えると、持ち主に対して尽くそうとする「特性」があるようにも考えられる。付喪神のように「恩返し」のような感情・心を持っている異形頭とは別で、異形頭はツールとしての本能の為に従事しているのであって、従事者本人に対して特別な意志は存在していないという事もありそうだ。そういうところで元が道具であるという様に存在が歪な感じが出てきて個人的に好みだが…この話については別でまた話したい。ツール系の異形頭らに悪意のある当たり方を持ち主が存在する話もよく見聞きするが、本能のために人型を取るようになったというのに当の持ち主から酷い仕打ちを受けてしまうというのは、救われない可愛そうな話にもみえなくもない。よく考えなくても人間から見れば不気味に見える風貌であるのに、自分は人に近づこうとする事に必死で存在の歪さ・不自然さに自覚がないというパターンでも中々に味がある。人間という存在の刷り込みにより、自分も同種の人間であるのではないかと勘違いを起こしてしまっている異形頭もいる可能性もあるだろう。

理由考察② 人間と交流するため

次に考えられるものは、異形が人間に興味を持って交流を取るべく最初に形から入っていくというもの、あるいは交流をする必要があるためにある程度受け取られやすい人に近い形になるというもの。漫画などでも、人間社会に溶け込むために人間の形を模してみるけど本当の姿は違いました…という人外を見かける事があるが、その類。

そもそも人間の常識として「言葉を使い、深い知性を持ち合わせているのは人間しか存在しない」という前提であることが多い。この厄介な性質によって、同種以外の同レベルの知性が干渉してくると、プライドなのか何なのかよく分からないが排除したがるような攻撃性が現れやすく感じる。交流が目的であるのに余計な前提が邪魔をしてしまう為、すこしでも人間側が受け入れやすくするために、人間外が合わせなければならないという厄介な構図である。形に拘る人間が面倒くさいとかいわない。

ただ、人外が人を模倣するので完全に再現するところには至らず所々が歪になり、故に頭部が異形頭になったり頭部以外の箇所も粗があったりするのだろう。人間は頭部の細かい各パーツの誤差範囲とも言える形状の違いで人格までイメージするが、人外はそもそもヒューマノイドの再現で手一杯でありそうだし、人間が一番気にする肝心の頭部が適当なんてパターンはざらなんて事もあるかもしれない。

理由考察③ 人型というスタイルが活動しやすい為

白い人が最後にあげるのは、人型が一番動きやすいから取ったというもの。そもそもの人間の形で二足歩行におけるメリットでよく挙げられるものが、道具を利用する手があるからというものがある。生物学的にみても、人類が直立二足歩行の進化で実際に勢力を強めたという点がその利便性とメリットを物語っている。これに関しては様々なメリットが推測されているので、気になる方は学術記事などを参照してより深掘りしても面白いだろう。

この理由である場合、もしかしたら人間という存在を意識せずに同じ形状を取るようになっていったという事象もありそうである。この場合異形頭側にも人間という前提が居ない為、人間と異形頭が邂逅を果たしたりお互いを認識したときのパターンの幅が増えると思うので、より想像することが捗りそうだ。

さいごに

ここで白い人が挙げた内容はほんの少しの推測にすぎない。考えればまだまだ様々な理由が見えてくるはずだ。異形頭について考えるときは、なぜ彼らが人の形を取っているのかという背景まで推察してみるのも一興だろう。